昭和四十三年十二月三十一日 朝の御理解
〔天地書附 「天地書附のところの天地と言う字を、いろいろ分解して頂く。」〕
 昭和四十三年もいよいよ今日一日をもって、終りを告げようとしております。何と言うても今年の信心と言うか、これは私を支えてくれたものは、年頭に頂きました。「いよいよ豊かに、いよいよ大きく」と言う。これがいつも、私の心にあった。そして一切の事が、それでおかげを頂いてまいりました。曲がりなりにもその御教が、私を、言わば支えてくれたと言う感じです。それが、どういう結果になっておるかと言うと、今年一年の、ここの在り方、ここのおかげと言う事になるのですけれども。
 これは、お広前を中心に致しましても、また大坪家におきましても、信心は曲がりなりにでありましたけれども。その事に取り組ませてまいりましたら、いよいよ豊かな、大きなおかげを頂いてまいりました。いよいよ今日一日ですから、本当にそれを清書するような気持ちとでも申しましょうか、仕上げさして頂くと言う気持ちで、言わば水も漏らさぬ気持ちで、そこのところに取り組ませて頂き、その事を、本年の年の納めとして、神様にお礼を申したいと、こう思います。
 皆さんも御承知でしょうが、今、東京の学生寮の寮長をしておられます、中山亀太郎と言う先生がおられます。両手がない、足は一本。小さい頃、事故に会われ、そういう普通から見たら、これ以上不幸はないだろうと言うような、災難に会われて、そして現在の中山亀太郎先生を作っておられる。その中山先生の有名な言葉に、「運命を愛し、運命を生かす」と言う言葉があります。運命を愛する事によって、いよいよこれは大きな心。いわゆる大きな心にならねば、運命を愛する事はできません。
 しかもその運命を、そこからの転回を願って、運命を生かしていくと言う事。これはいよいよ豊かにならなければ出来ません。大きくなる事によって、運命を愛し、いよいよ豊かな心にならせて頂いて、その運命を、そこから生かしていく事が出来る。今年一年の事を、いろいろ振り返ってみますと、危ない所で、失敗しそうになり、危ない所で運命がそこから狂うてきたのじゃなかろうかと、思われるようなところにも直面致しましたけれども。狂わせる事なしに、それを生かしてこれて、今日のおかげを頂いておる事は、有難い事だと思います。
 私共が、豊かに大きな信心がですね。必ずそこから、運命を生かしていきます事を体験致しましたですね、今年は。お互いが良い運命を願い、幸せを願わん者は、ないのですけれども。言うなら、汚い小さい心がです、伸びるはずの運命を枯らし、そこから神様のお恵みに浴する事の出来ない。本当に自分は不幸せとか、本当に自分のような難儀な者はないと言ったような事に変っていくのですから。本当に、いよいよ豊かにいよいよ大きくと言う事をですね。私共の生き方の上に、いつも私共の支えになっておると同時に、それが自分の血に肉になっていかなければならない。
 今日は、その意味合いで、おかげで今年一年間、その事に取り組ませて頂いた事によって、言わばもう血に肉になったとして、また新たな年の信心の目指しと言うのは、言わば一段と高いところに置いて、おかげを頂いて行きたいと私は思います。ですから曲がりなりにも、その事は皆さんの血に肉になったとして、今日の除夜祭には、それを納めさせてもらう。これだけは、もう私のものになったとして、お礼を申し上げさせてもらう。振り返ってみると、目の荒い事であったけれども。そこんところは詫び抜かせて頂いて、最後のお詫びをです。
 心から、おかげ頂いて、曲がりなりにも、それを自分の信心の血に肉に、して。そして次の年の信心に向いたい、と言う風に思うとる。曲がりなりではあったけれども、本当におかげ頂いたと。その事が運命を愛し、運命を生かす事になったと、今日私は、そういう体験をし、この一年間の事を、いよいよお広前を中心にして、又は大坪家の上におかげを受けてきたと言う事をです。有難いと思うてお礼を申し上げねばならんと思うとります。もう以前でしたけれども、「天成地也」と頂いた事があります。天成とは、神様の願いが成就すると言う事。地也と言うのは、いわゆる神様の願いが地上になる。
 神様の願いが私共の上に成就していくと言う事は、いよいよ大地にひれ伏した。大地の心を心として、天地の豊かさを身につけていく以外にない。もうここに極まったと言う意味なんです。神様の願いが地上になる。神様の願いが氏子一人一人の上に、信心しておかげを受けてくれよと言う願いが、一人一人氏子の上にかけられておる。そのおかげが成就する事の為に、もう大地の信心以外にはない。もうこれに極まったと言うのである。
 それを大地にひれ伏した、《泥》のような、言わば大地のような豊かさ、どのような汚いものでも黙って受ける豊かさ。受けるだけではない、大きくなるだけではない。それを生かしていく。それを沃土にしていく。豊かな土にしていく。そこから限りなく、ものが恵まれ育っていく働きをしている。神様のおかげを頂くのは、もうこれに極まった。天成地也と言うのは、その時そういう御理解を頂きました。
 その言わば、天成地也をです。身をもって体験させてもらい、成就してゆくおかげを頂かして頂く為にです。お互いが、いよいよ豊かに、いよいよ大きくならねばならない。それを頂かないと言う事になるところから、運命が狂うてくる、と言う事。例えて、ひとつの問題が起きてくると、何かもやもやしてきます。豊かさもなければ、大きさもない。言わばそれで腹を立てます。その事が、どういう事になるかと言うと、その事がです。運命を狂わせるのです。そこから狂うてくるのです。そこのところを、腹の立つ問題でもあろう。歯痒い思いをする事であろうけれども。
 そこを黙って受けていく豊かさ。それがいよいよその人の心を豊かな上にも、豊かにしていく。そこから運命を生かしていく事が出来る。もうこれは、本当にそうだと思いますねえ。これは商売なんかさしてもらっている人は体験のある事だと思うのですけれども。本当にあの商いをしょって、もやもやしたら、もうそれでおしまいです。もう買うてもらわんでよかと言う気になったら、それきりです。しかしそれが売れなかっただけじゃないのです。そこから運命が狂うてくる。
 相手は、もうあそこから買わんと言う結果になってくるのです。ですけれども、そこのところを豊かに受けていくと言う事からです。そこで例えば商いやらが出来るだけではない。そこから、新たなお得意さんが出来てくるのですから。そこから新たな運命、新たな繁盛の道が開けてくるのですから。いかに豊かに、いかに大きな心にならなければ、馬鹿らしいと言う事が分かるからそこんところを、一生懸命稽古する。そしてそこんところを、いよいよ信心とはこれだと、極まったものにする。
 「武士道とは死ぬる事と見つけたり」と葉隠れにありますね。ですから信心とはですね。いよいよ豊かに、いよいよ大きくなる事に精進する、事に極まった。いわゆる天成地也。もうこれなんだ。極まったりと心に思うておくと言う事。これを、そうだと確信しておくと言う事。そこに、どのような事情が起きてきても、どのような事が起きてきても、言うなら、‥‥なら‥‥すむおかげを頂いた。それが運命を愛する事になり。いよいよ運命を、そこから生かして頂いていく事が出来る。
 私、今年一年の事を思うてみてです。ここんところが大きゅうならにゃんところだと、もうそれは、大きくなくない事が楽になる事がある。ここで、こう言うたら、ここでこうしたらと言う時があるですけれども。そこんところを金光様金光様で、大きゅうならして頂く稽古を、一生懸命させて頂いて、そしてそれをです。大きく受けるだけでなくて、それを生かしていこうとする豊かさ。例えばそれが人間関係であるなら、相手まで生かそうとする働き、相手の事までも、言うなら祈らして頂こうと言う心。ここから、いよいよ運命を生かしていく事が出来る。
 それは、もう本当に不思議なおかげになっていくのです。そこから運命の新たな転回と言うのがなされる。それを、一年続けてみてです。本当にそうだなと、いよいよ確信が出来る。その事が、もうすでに、あなたの信心の血にも肉にもなったんだと言う事になる。しかしそれは、厳密に言うと、曲がりなりにではあったけれどもです。あそこで、ああ失敗もしたけれどもです。そこんところをお詫びさしてもろうてです。今日と言う今日は、ひとついよいよそこんところに綿密な、今日と言う一日は、水も漏らさない、心でそれを行じさせてもろうて、今年最後の納めにしたい。
 そして来年は、大きいとか豊かとか言わんでも、自分の血に肉になっておると言うおかげにしたい。そして次の高度な信心にすすみたい。それを、今日一日で仕上げようと言うのは、大変な事ですけれども。そこんところを、お取次を頂いて、お詫びをして、金光大神の御徳によってです。一年間本当に、それが私を支えてきたと言う事でないけれども。支えて来た事にして、おかげを受けていく為に、今日一日、年末ともなり、いよいよ最後の日だと言う事になりますと、さあお正月の準備やらなんやらで、兎に角忙しい。いわゆるイライラもあろう、モヤモヤもあろうけれども。
 それが今日の最後の仕上げだと。この事を納めとして、今日の除夜祭に、区切りをつけたい。そういうひとつの願いの元にです。おかげを頂きたい。「いよいよ豊かに、いよいよ大きく」と言うのは、もう私共のものになったとしてです、納めたい。そして次の信心に向いたい。皆さん本当におかげ頂かせてもらい。そこからです、本当にそうだなあと、そこから良い運命が展開してくるんだなあと、ひとつの体験を頂かなければです。いわゆる、「天成地也」。信心とは、もうこれに極まった。
 これに定まったと、言う程しのものになってこない。天という字が大の字なら、いよいよ大きくと言う事。地と言う字がいよいよ豊か、である。運命を受けて、それを生かすと言うのであるから、地と言う字を分解したら、そういう事になりますね。この事に一年間取り組んできたけれども、倒れ転びであった。けれども今日一日、いよいよこの大きな心。天と言う字に一を取ったら、大と言う字になる。今日一日の一の字を、大の上に加えたら、神様が大きな心として、こちらが納める気になれば、大きな心として受けて下さる気がするのです。
 納める事が出来ると言う気がするのです。今日私は、今朝の御理解を頂く為に、教典を開かせて頂きましたら、天地書附のところの天地と言う字を、いろいろ分解して、今朝の御理解を頂いたのです。今日一日ばたばたしたっちゃ難しか、普通は、それですけれどもね。今日一日を、水も漏らさんと言う思いでです。今日一日を大きな心にならして頂くと、いわゆる天のおかげになってくる。それとして、納める気になる。いよいよ豊かに、いよいよ大きゅうと言う。今年一年の信心を、今日の納めの日として、詫びていくと言うところからです。
 天として受けて下さり、地として受けて下さる。地は、いよいよ豊かにと言う事である。受けただけでなく生かしていくと言う働き。それが基礎になり、原動力になり、これが基盤となって、次の垢抜けした信心に進んでいかなければならない。今日の除夜祭には、今日一日その事に取り組まれた事をもってです。一年間本気で取り組んできた事として、受けて下さるお祭りになりたい。運命を愛し、運命を生かすと言う事。
 又は天成地也と言う事。もう信心はこれに定まったと。ただ運命を愛し、運命を生かすと、知っておるだけではいけません。運命を愛するとは、どういう事か。そんなら運命を生かす、そこから新たな運命が展開してくるような、体験を頂く為には、どういう信心させて頂いたらよいかと、言うような事を、今日は申しましたですね。どうぞ。